清嶽山「鶴山・鶴ヶ城跡」(きよたけさん)島根県出雲市

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2013年7月13日

登山口駐車場 →0:20→ 作業道終点 →0:15→ 清嶽山 →0:20→ 登山口駐車場

全歩行時間 0時間55分

登山行程図(地図をクリックすると拡大)

 久しぶりに出雲の山へ向かう。今回の目的は5月に登り残した島根県の山へ登ることで、最初に田儀の清嶽山へ登る。登山の起点を出雲市多伎町のJR山陰本線田儀駅とすれば、田儀駅前を走る国道9号を大田市方面へ進む。

橋を渡り、高架の先を右折

 田儀駅から約1km程度進むとJRの高架橋下を潜り、橋を渡ってすぐに右折する。この入口には鶴ヶ城跡の案内が置かれている。川沿いを少し下ると左に福祉施設の「多伎の郷」を過ごすと、右には立派な多重塔が建ってい+る。

川沿いを下る 多重塔の先を左折

 多重塔の先で左上へ分岐する道に入る。なお、分岐の入口には「鶴ヶ城跡遊歩道」の案内が置かれている。少し坂を登り海を眺めると、雲天ながら美しい風景が広がり、遠くには出雲北山が霞んでいる。

左上に向かう 日本海の先に出雲北山

 右に墓地を過ごし、少し登ると左にトイレの整備された広い駐車場が見えてくる。舗装道はまだ先へ続いているが、この付近から登る方が安全なようだ。荷物を準備して駐車場を出発。足下には可憐なカワラナデシコが風にそよいでいる。

広い駐車場を出発

 右に鶴ヶ城跡遊歩道の案内図が掲示されているので事前に知識を仕入れることができる。要所または見所としては源蔵塚、平沙戌展望広場、鶴ヶ城跡、馬場跡があるそうだ。舗装道を進むと、すぐにアンテナ施設を右に過ごし、もう少し進むと左に遊歩道が分岐する。なお、入口の案内には平沙戌展望広場へ500mと書かれている。

遊歩道案内(写真をクリツクで拡大) 舗装道を左折し遊歩道に入る

 遊歩道に入るととすぐに源蔵塚の案内がある。

悲話をとどめる雲石境の供養塚と言うことで、詳細な説明をしっかり眺める。

源蔵塚」については、以下の通り

 江戸時代の初め、京極若狭守忠高が出雲の領主であった頃(1634〜1637)、このあたりに源蔵夫妻が住んでいたが、大森銀山で盗みをして逃げてきた男をかくまったという罪で処刑された。村人は哀れんで、この夫婦の遺体を埋めて塚を造り松を植えた。これが「源蔵塚・源蔵松」である。

 これらは藩政時代に雲石の境しるしとして重要な役目を持っていた。出雲風土記解(1787)に「源蔵松というべき木もなし」と記されているから現存する枯松は当時のものではなく、その後植えられたものであろう。なお、正保3年(1646)秋、時の松江藩主 松平直政は、この塚の南側に境界木として松5本を植えさせたが現存せず、朽ちた切株がわずかにその面影をとどめている程度である。

 塚の傍らの石碑は後年供養のため建てられたものらしく、正面に「南無妙法蓮華教・法界」側面に「亨保7年(1722)壬寅10月13日 大田村長 谷淀」と刻まれている。

擬木の階段を登る 車道に出る

真夏の登山なので左右に少し草が被るが、大した障害ではない。やがて現れる擬木の階段を登り、わずかに進むと車道と合流する。なお、この合流点は源蔵塚から200mの位置である。

車道を右折し遊歩道に入る 再び車道に出る

 最初のチェックポイントの平沙戌展望広場までは300m、わずかに車道を進むと、すぐ左へ遊歩道は分岐するが、擬木の階段を登ると再び車道と合流する。この先平坦な車道を進むと車道の終点へ到着、鶴ヶ城跡へは直進方向だが、分岐を折り返すように左折して平沙戌展望広場へ向かってみる。

車道終点 ベンチを過ごす
休憩所 日本海の展望

平沙戌展望広場から眺める風景

 整備された遊歩道を進むと、左にベンチの置かれた休憩所を通過する。更に進むと東屋が建ち、ここでのんびり休憩することができる。展望地はこの東屋のわずか先で、左右に繁る樹林の間から日本海と稲佐の浜と出雲北山を眺めることができる。晴れていれば雲天でも素晴らしい展望なので、空気の澄んだ晴れた日には、コバルトブルーの海と出雲北山の勇姿を眺めることができることだろう。しばらく眼下に広がる展望を眺めた後、車道終点まで戻り直進し、鶴ヶ城跡へ向かう。

車道終点から城跡を目指す 周囲にはクマザサが目立つ

 鶴ヶ城跡へ500mの案内を確認して遊歩道へ入る。左右に自然林が続き、時折現れるクマザサもそよ風に揺らめいて良い感じである。残り300mの案内を通過、この先にベンチの置かれた休憩所があり、遊歩道は左右に分岐する。

遊歩道は左右に分岐 左の道を採ると坂を下る

 左道は擬木の階段で、右はコンクリート舗装だが、どちらも先で合流する。合流点から少し下ると左に分岐があり、この道を下ると城平側300mと案内されている。従って、下山にこの道を採れば周回することができそうだ。

右道は緩やかな傾斜の道 下山への分岐

 さて、この地点から城跡までは残り50m、わずかに坂を登れば、立派な休憩所の設置された鶴ヶ城跡へ到着する。広く平坦な山頂には、鶴ヶ城跡の案内が置かれ、「尼子氏盛衰のドラマを秘めて」とこの城の歴史のことも併せて説明されている。

清嶽山山頂の休憩所と広場

 鶴ヶ城の始まりは、康和4年(1102)源義家の嫡子の義親が、隠岐へ流される途中、清嶽山に柵を作り鶴ヶ丸と名付けて弟義忠とともに守った。また、吉野朝のころ(1336〜1392)、地頭古荘二郎左衛門が清嶽山へ築城したことも伝えられている。

 室町時代の大永年間(1521〜1528)には、小野(古荘)玄蕃守が清嶽山に城を築き、鶴ヶ城と名付け尼子36城の一城として1万5千石を領した。当時は尼子氏が山陰山陽11か国を勢力下に治めていたころである。

 元亀3年(1572)、小野氏の家老 広瀬右近之丞が鶴ヶ城をよく守り、よく防戦しいていたが、銅山師 三島清右衛門の進言を入れた毛利輝元に攻められて落城した。その後、徳川幕府の武家諸法度により廃城となった。

 山頂(標高147.4メートル)には500坪(1650平方メートル)あまりの平坦地があり、その下方南側に200坪(660平方メートル)ばかりの馬場跡、その西に弓場跡と思われる平坦地が見られ、大手木戸口は津戸側であったと伝えられている。

清嶽山の山頂風景

 城跡の周辺には木々が多く残っており、展望は木の間越しである。なお、木の間越しに三瓶山等が見えるはずだが、本日は霞気味の天候であるため、はっきり確認することはできなかった。城跡の先から少し(100m)下ると二の平(馬場跡)へ100mと案内されている。

山頂に置かれた案内 二の平へ100m

 城跡で小休止を取った後、駐車場まで引き返す。下山の際は、車道を歩いてみた。眼下に広がる大海原を眺めながらの下山も素晴らしい。しっかり展望に満足しながら駐車場まで引き返した。清嶽山への登山が終了したことにより、年初に計画していた出雲付近の山歩きは無事終了したことになる。

JR揖屋駅 明治の歌舞伎を彩った 名女形 女寅はん

 清嶽山を出発、次は以前からどうしても行きたかった東出雲町の黄泉比良坂へ向かう。黄泉比良坂の位置が良く分からないので最初に揖屋駅へ行く。ここでは駅前に銅像が建っており、「明治の歌舞伎を彩った 名女形 女寅(めとら)はん」と紹介されている。

 案内によれば、東出雲町大字揖屋町(駅前周辺の地区)出身の女形歌舞伎役者で、本名を大西清太郎と言い、明治20年に2代目市川女寅(めとら)を相続し、そして明治43年には6代目市川門之助を襲名した。昭和42年に、島根県教育委員会選定の「明治の百傑」の一人として顕彰されているそうだ。

揖夜神社大鳥居 山門

 駅前の地図を確認していると、揖夜(いや)神社と言うものがあり、ご祭神はイザナミの命であるそうだ。この社は黄泉の国に縁深い社であり、日本書紀や出雲風土記にも登場するそうだ。黄泉比良坂(よもつひらさか)は黄泉の国と現世との境とされ、現在の東出雲町にある伊賦夜坂(いふやざか)であると古事記に記されている。先立たれた最愛の妻を追ってイザナギノミコトは、黄泉の国へ旅立つ。悠久の神話ロマンを感じる神秘的なスポットとして紹介されている。

揖夜神社へ参拝

 まずは揖夜神社へ向かう。揖屋駅から駅前の分岐を右折、そのまま道なりに進むとこの神社がある。神社の案内によれば、「出雲地方でも熊野大社(八雲村)と共に最も古く、風土記に「伊布夜(イフヤ)社」と記され、日本書紀 斉明天皇の条に「言屋(イフヤ)社」の名で登場する。本殿は大社造りで、五色の八雲、極彩色の神事の障壁画が扉に描かれている。豊作豊漁を祈念する祭礼が毎年8月28日に穂掛け祭りがにぎやかに行われている」と案内されている。

拝殿 御本殿

伊邪那美命(イザナミノミコト)の祀られた揖夜神社の風景

 立派な注連縄の祀られた神社はとても神聖なもので、イザナミが祀られていると思うとなおさらである。神社に参拝し、家族の無事を祈願して黄泉比良坂へ向かう。揖夜神社から更に東へ進むと案内が置かれており、踏切を渡ると目に飛び込んできたのが「黄泉の国への入口 黄泉比良坂」、どんな場所なのかとても期待が高まる。

黄泉比良坂の案内

 そのまま道なりに進むと車道終点に駐車地があり、ここには立派な案内が立っている。なお、この地は北川景子主演の「瞬」のラストシーンに使われたそうだ。黄泉比良坂は、黄泉(あの世)の国と現世(この世)の境界として古事記上巻に、「伊邪那岐(いざなぎ)命が先立たれた最愛の妻、伊邪那美(いざなみ)命を慕って黄泉の国を訪ねていかれた入口がこの地(黄泉比良坂)である」とされている。

注連縄の渡された石柱 神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地の石碑

黄泉比良坂の風景

 別名「伊賦夜坂」の起源でもある。昭和15年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」と刻んだ石碑が設立されたそうだ。駐車場の奥に続く坂を登ると大きな岩が並んでいる。これが黄泉の国との境の大岩であろう。

黄泉の国との境界の千引岩

黄泉の国との境界 黄泉比良坂の風景

 この先に注連縄の渡された石柱が立っている。これは朝日新聞に載っていた石柱だろうが、とても間が狭く、想像とは全くちがっていた。そのまま奥へ向かって進んでみたが何もなかった。再び大岩の前に立ち、この先が黄泉の国と思うと、そう思えてくるから不思議だ。念願の黄泉比良坂へ来ることができたので、今回の出雲旅行の目的の一つが終わった。

神代そば全景 手打ちそば

 久しぶりに神代そばへ行き釜揚げそばを食べた。やはり名物の蕎麦は美味しく、この店は有名な店なので、11時半に店内に入った際には先客が1組だったが、食べ終わる頃には外で順番待ちができていた。やはりすごく人気のある店である。最後にそば湯を飲んで神代そばを後にした。

出雲地方特有の食べ方の釜揚げそば

海岸から眺める清嶽山

清嶽山に建つ休憩舎

清嶽山山頂風景

伊邪那美命(イザナミノミコト)の祀られた揖夜神社

黄泉比良坂へ向かう石柱

この先は黄泉の国 黄泉比良坂

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歩いた足跡  

登山口周辺の地図はこちら 島根県出雲市 清嶽山(鶴山・鶴ヶ城跡) 登山口付近のMAP

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